第二章 ジェイムズ経験論の中心思想
第一節 反主知主義としての根本的経験論
ジェイムズ経験論の中心思想は根本的経験論radical empiricismであり、それは多面的見地にたった考察を必要とするだろう。その理由は第一に根本的経験論の反主知主義的性格にあり、第二に根本的経験論に対するジェイムズ自身の考察範囲の広さにある。
これまでの哲学はジェイムズの考えによればその大半が知性による知的構築物であった。従って根本的経験論が積極的に主張されるためには、大胆にも「哲学はソクラテスやプラトンの時代以後ずっと誤った手がかりによってきた」(1)と断定する挑戦的態度がとられねばならなかった。それ故ジェイムズは「主知主義者の困難に対する主知主義的解答は決して出てこないであろう」(2)と断定し、「それらの困難からぬけでる真の方法はそのような解答の発見にあるどころか、その問いに対して単に耳を閉じることにある」(3)とまできめつけるのである。そこでまずわれわれは根本的経験論が常識の哲学的範疇にかからぬ特異的地位にある点を了解しなければならない。
われわれは前章において根本的経験論が絶対的観念論に対立する哲学であることを導きだした。さすれば、本節の意図に基づけば根本的経験論以外の哲学はすべて主知主義的哲学とみなされるため、その絶対的観念論は主知主義的哲学の代表として存在していると解釈しなおされるだろう。なぜならばジェイムズによれば絶対的観念論の生命線、即ち「事物の中にあらゆるものを包括せる知的統一という考え」(4)は主知主義者の哲学の至高の仕事であったからである。従ってそこでは絶対的観念論は根本的経験論に対立する哲学の総称、いいかえれば主知主義的哲学のすべてをあらわしているのではなく、単にその典型的一事例にすぎない点に注意しておく必要があるであろう。そしてわれわれは、よりジェイムズに忠実であろうとするならば、前節の一パターンにさらに二つのパターンをつけ加える必要があるだろう。即ち哲学は前節の最後において予言的に分類されている図1の如き図式と本節の意図に基づく図2の如き図式をもつのである。
図1
┌ 合 理 論
哲 学 ┥
└ 経 験 論
図2
┌合 理 論
┌ 主知主義的哲学───┥
哲 学┥ (いわゆる哲学) └経 験 論
└ 反主知主義的哲学──根本的経験論
これら二つの図式はわれわれに興味深い主題を提供しているのではあるまいか。というのはジェイムズの根本的経験論をいかに位置づけるかの主観的な基準の差異が対比せられているからである。実は図1・図2は本質的に対立する図式ではないにもかかわらず、われわれが根本的経験論を位置づけるときは図1のようになり、ジェイムズの場合は図2のようになるのである。そのことは以下の事実、即ち合理論と経験論と根本的経験論の三つの哲学の関係においてジェイムズは自らの哲学に経験論の名を与えながら、なぜにそれを他の経験論と対立させたかについての詳細な論述を要求するであろう。
ジェイムズが自らの哲学に特に根本的経験論という名を与えたのは、本来的に経験論的立場にたって合理論と対立しなければならなかったこれまでの経験論のすべてが合理論的方法剽窃しているばかりか、あたかも合理論の臣下であるかの如き考えをしていたからである。特にジェイムズの批判の対象となったのはイギリス経験論であり、それをふつうの経験論ordinary empiricismないしはtraditional empiricismとよんで自らの根本的経験論から区別している。ここにジェイムズの哲学の基調が合理論を批判する経験論であるにもかかわらず、その又経験論を再び批判するという複雑性をもっている具体例がしめされていよう。
それでは根本的経験論とは何か。まずそうジェイムズがよぶわけは「経験論という名前がしばしば示唆するところの精神原子説から区別する」(5)という言語の定義上の配慮からである。これはいわゆる従来の経験論がジェイムズにとっては精神原子説を採用している点、いいかえれば経験とは個々にばらばらに切りはなされた寄木細工ないしはレンガをつんで建てられた建物でしかないという認識に基づいている。たとえばジェイムズは次のようにいう。「具体的経験において次のものをその次のものとの一致という事実の認識、そしてその結果われわれがそこにおいて彫りこむ切片のすべては概念化能力の人工的産物であるという事実の認識は私が『根本的radical』とよんでいる経験論を伝統的合理論者の批判するお化けの経験論bugaboo
empiricismから区別しているものである。このお化けの経験論は経験を原始的感覚に切り刻み。それらを純粋に知的な原理が高所から舞いおりてそれ自身の結合的カテゴリーにおいてつつみこむまではお互いでもって結合することのできない原始的感覚的存在にしたといって批判されているのである。」(6)
ジェイムズのいうように経験論がすべて精神的原子説をとっているかどうかは疑問である。ただわれわれが合理論と経験論とを比較して考えてみた場合、それらがジェイムズの定義するように、前者が全体から部分への思考態度をもっているのに対し、後者が部分から全体への思考態度をもっている(一)と判断しがちなように、形態的には合理論は全体-形式all formに固執し、経験論は各個-形式each formに固執しているのである。それ故精神原子説は経験論のある意味における典型であるというジェイムズの考え方は間違っているとはいわれないだろう。
それよりもわれわれはジェイムズが経験論の固執する各個-形式に生じるなんらかの破綻を主知主義的方法によって打開しようとする態度に反対している点に注意せねばならないだろう。確かにジェイムズはこれまでの経験論とて経験的事実に依拠した哲学であるという点は認めており、従ってこのお化けの経験論も又それに妥当しているのものとして異論をとなえていない。しかしながら経験的事実に依拠するということと知的態度で経験を得るということとは全く別の事柄である。いいかえれば人間が知的に処するという行為は経験の所与に基づく経験的事実に徹していることでは決してないのであって、かかる人間の行為の考え方は、ジェイムズにいわせれば「中途半端な経験論the
half-way empiricism」(7)であるのである。このような経験論として、たとえば実証主義、不可知論あるいは科学的自然主義があげられる。
これらはなるほど経験論的事実に基づく結論を導出し、そして合理論とは違って「事実の事柄に関する最も確実な結論でさえも将来の経験の過程の中にあっては変様する」(8)可能性の存在を許しているが、知的に考えているために、知性に絶望しない限りは、一元論的立場への傾斜を生み、一元論を仮説的にとりあつかうどころか、いつのまにか一元論をあらゆる経験を一致させるなにかすばらしい絶対的存在へとまつりあげてしまう危険性を内包しているのである。
この見地からジェイムズは事実の変様の可能性の認容、即ち事実に関する仮説的なとりあつかい方の徹底を是とし、一元論さえもあくまでも一つの仮説としてとりあつかうと同時に、多元論を世界の実在的形態であるとする考えを自らの提起する積極的仮説としてうけとろうとする。ここにジェイムズが「根本的」という世界観的視点からの根拠があるといえるのである。このようにジェイムズが「根本的」なる形容詞を付加するのは経験論的立場を徹底するという点を強調しているからにすぎない。
とはいえ内容的には根本的経験論は合理経験論は合理論批判の急先鋒をとっている。ジェイムズは根本的経験論の前にたちはだかる障害について次のように考える。「現代の精神において根本的経験論に対する大きな障害は根深い合理的信条、即ち直接に与えられるものとしての経験はすべて分離であり結合ではないという信条、又このばらばらの状態から一つの世界をつくるためにより高い統合せる行為者がそこにあるに違いないという信条である」(9)と。
この信条はどのような知性的態度に起因するのであろうか。それは知覚の流れを概念におきかえても実在そのものをつかみえないという考えから経験をはなれた存在の力を借りて実存性を求めさせる態度にである。この作用は知性の働きによる以外のなにものでもなく、合理論は主知主義に全く依存した形で独自の実存性を求めるチャンピオンとなる。しかしながら主知主義の限界とはそれがわれわれの内的生活に適用しえないところにあり、この内的生活そのものが実存性をもつと考えるジェイムズにとっては主知主義は「ただ実在に接近しうる」(10)程度にしかその役割が認められていないのである。
ジェイムズがこのように判断するからにはわれわれはそこから経験の連続性、いいかえれば経験それ自体の実存性は決して分割されえないという性質を確認しなければならないであろう。「経験の具体的脈動の中では何が関係であり、何が関係せられた事物であるかは区別しにくい」(11)とジェイムズはいう。この考えはジェイムズ哲学の根底にあり、そしてこれを前提とする哲学でなければ、いかに洗練された完全性をもった哲学であろうとも、非実存的なそれとみなされなければならないのである。そしてジェイムズは根本的経験論のみが知覚の流れをそのまま実存的なそれとして認め、いかなる知的偏見もなく経験の連続性を説明しえると考える。
この意味では根本的経験論は一つの哲学的論理体系というよりも一つの哲学的態度であるだろう。この態度は体系化されえない宿命的性格をもっている。なぜならば根本的経験論はわれわれの精神に宿っている実在感をすなおに、しかも唯一の実存性の証しとして認めているために、常に経験の連続的流れに注目するだけだからである。経験の連続的流れとは生命の流れそのものにすぎない。それはいくらばらばらに切りきざまれ、固定された概念組織にはりつけにされたところで、その本質はざるの中にいれられた水のようにただちにこぼれおち、見失われていく躍動である。
なるほど主知主義とて生の流れに注目し且つそれなりに考えconceiveようとする意図は持っている。だがそれはいつも生の流れにある事実を定義するdefineことでもって満足してしまう。この主知主義のあり方は以下の問題を生じさせる。主知主義は概念的規定にのみ満足するのであるから、ただちに次の論理「概念はその概念の定義に含まれないすべてのものをその概念の意味によって考えられた実在から除外する」(12)を導出する。そこでは事実は名づけられる。しかし一度名づけられればその定義は固定してしまい、事実がそれ以上に含んでいるかもしれない積極性は完全に除外されてしまうのである。
ところが生の流れにおいては名づけられた部分は表面的部分にすぎず、除外された積極性こそ生の本質であり、しかもその大半であるかもしれないのである。ジェイムズはこういった主知主義を悪い主知主義vicious
intellectualismとよんでおり、すべてのものを定義するという「この無批判的習慣this uncriticized habit」(13)の欠陥として逆に批判する。しかしわれわれはジェイムズのこの内気な表現に対し、主知主義はすべて悪い主知主義であるとみなしてもいいのではないだろうか。(二)
さらにジェイムズの合理論批判にはもう一つのするどい刃が働いている。それは知覚の流れの存在に対する合理論の軽視に対する怒りである。ジェイムズによれば合理論は自らのこしらえる概念の欠点を逆に知覚の流れの非難でもって隠蔽し、無批判的に概念的世界を「不滅の精神の研究に適した唯一の対象」(14)にまでたかめている。ジェイムズは伝統的主知主義者の信条としてマルブランシェの言葉を引用する。「感覚的様態は闇にすぎません。理性にまでより高く上りなさい。さすれば光をみるでしょう。感覚や想像や情念には沈黙を課しなさい。さすれば内的真理の純粋なる声、公の主(理性)の明晰にして確かな答えを聞くでしょう。諸観念の比較から帰結する明確性を動揺させたり干渉したりする感情の溌剌さでもって混乱させてはいけません。……われわれは自分たちが連結している体の愛撫やおどしや侮辱にもかかわらず、又われわれをとりまく対象の作用にもかかわらず、理性に従わねばなりません。知と感情との差異、又明晰な観念とあいまいで混乱した感覚との差異を認識するよう勧めます。」(三)
この主張には合理論者の謙譲さは少しもみられず、独断と傲慢さがみちみちている。それのみならずこの引用の意味するところは、とどのつまり、ジェイムズの最もいみきらう生を離れた超絶的態度の強調である。その結果それは「人生の煩雑さに介入しないで人生を理解することが絶対的によい立場である」(15)ことになってしまう。
ある合理論者の見解のように「哲学固有の仕事とは世界を理解することであり、世界をよりよくするよう試みることではない」(四)のではなくして、まさにその逆でなければならない。従って合理論的主知主義の帰結はジェイムズの人生観と最も敵対するのである。
ところが合理論は主知主義に依存すると、感覚的世界にかわる知的世界、即ち概念的世界をつくるところまではできたが、それが実存の世界の象徴でしかない限界性に気づきだす。それ故合理論は概念的世界に実存的世界の厚みを補い、且つ実存性を与えるために知覚の流れでもなく、概念的構成物でもない、一種異様な統合者を捏造しだすのである。カントの物自体、ブラッドレーの絶対者、グリーンやロイスの精神がその代表であり、かくて合理論は前節で学んだところの絶対的観念論にまでつきすすみ、根本的経験論と絶対的なまでの対立関係にたつに至るのである。
かかるお膳立をするのが主知主義であるとみなすならば、われわれが主知主義の特徴を次のようにいいなおすのはジェイムズの意に適っているといえるだろう。即ち主知主義は統合せる行為者を導出するに及んで、まず個人的主観的好みを完全に否定してしまい、次いでわれわれの精神において無視されえない力として燃えたぎる、祈らざるをえないところの、又期待せざるをえないところの信仰faithをも否定してしまう、と。なぜならば主知主義の世界ではかかる統合せる行為者のもとに知性的、理性的作用による証拠がなければ何も信じられないからであり、そのために感覚的作用等の介入による誤謬を回避するという前提が主知主義のルールとしてはばをきかせているからである。
何よりもジェイムズを反主知主義の方向に走らせるのはジェイムズの生命線である善なる意志あるいは信ずる意志が主知主義的世界においては心理の攪乱者であるとみなされる点であろう。しかしかかる主知主義こそジェイムズにとればわれわれをして実在的だと思わせる根拠が現存する個人的批判者、探求者の信仰にあるという点を全く忘れ、且つ人間が未来へとはばたく世界の真の創造者であるということをことさらに無視した思考上の敵なのである。
さて以上の論述からわれわれは哲学における根本的経験論の位置関係を知りえた。ジェイムズの本心は実在的なものが主知主義的方法によって流動的躍動的状態から静的不連続的なそれにかえられてしまうという不満をぶちまけるところにあった。その結果根本的経験論は従来の神に反逆し、近代における哲学的天才達をひざまずかせた絶対者を無視し、ついには知的生活に人間的誇りを抱く常識人の安易なeasy-going人生態度にまで批判の矛先をむけるに至ったのである。そしてその根拠としても主知主義に支配された従来の経験論が経験の本質について何も語っていないという根本的経験論のこの主張ほど、われわれの精神に驚異を与え、且つめざめさせてくれるものはないであろう。
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